今回は、『暇と退屈の倫理学』の[後半]として、「第5章 暇と退屈の哲学」から紹介していきます。
第1章~4章までは、[前半]の記事にて紹介しています。
ここまでの『暇と退屈の倫理学』振り返り
本書は、序章と結論、そのほか7章で構成されています。
序章 「好きなこと」とは何か?
第1章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 暇と退屈の系譜学―人間はいつから退屈しているのか?
第3章 暇と退屈の経済史―なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第4章 暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か?
第5章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か?
第6章 暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 暇と退屈の倫理学―決断することは人間の証しか?
結論
[前半]では、第4章までの内容をざっくりと紹介してきました。
退屈とは、人が定住生活を始めた1万年来の課題です。
ただ、かつての有閑階級は、「暇だけど退屈じゃない」過ごし方を心得えていました。
しかし、資本主義社会の下で、多くの労働者に余暇が与えられることになります。
それまで暇も退屈もなかった労働者は、突然退屈の中へと投げ出されることになり、そこに消費社会がつけこむ。
そうして出来上がるのが、「退屈が消費を促し、消費が退屈を生み出す」という悪循環です。
第5章以降では、ハイデガーの退屈に関する分析を中心に話が進みます。
そしてハイデガーを批判的に解釈しながら、退屈と向き合うための方法が、最後に語られることになります。
退屈の3つの形式
第5章では、著者が退屈論の最高峰という、ハイデガーの退屈に関する分析が主題です。
ハイデガーは、『形而上学の根本諸概念』という本で、退屈について3つの形式を挙げています。
ハイデガーの挙げる第一形式と第二形式の具体例の一部を本書から引用します。
たとえばわれわれはある片田舎の小さなローカル線の、ある無趣味な駅舎で腰掛けている。次の電車は四時間たったら来る。(中略)時刻表を読んだり、この駅から別の地域までの距離の一覧表を詳しく見たりするが、それらの地域のことは他には何も分からない。時計を見るーやっと十五分過ぎたばかりだ。(中略)行ったり戻ったりするのにも飽きたので、石に腰をおろして地面にいろんな絵を描く。そうしながら、ふと気がつくと、また時計を見てしまっているーやっと半時間たったーといった具合に進んでいく。
我々は夕方どこかへ招待されている。(中略)そこでは慣例通りの夕食が出る。趣味もなかなかいい。食事が済むと、よくある感じで楽しく一緒に腰掛け、多分、音楽を聞き、談笑する。面白く、愉快である。(中略)今晩の招待において退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。(中略)するとそのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだ、と。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫
本当はもっと長いのですが、それぞれ一部抜粋しています。
ハイデガーというと非常に難解なイメージがつきまとうのですが、この妙にリアルな描写は、とても人間味を感じますね。
それはともかくとして、この例は非常にイメージしやすいかと思います。
具体例の解説に入る前に、それぞれの形式をまとめてみるこのようになります。
- 第一形式 何かに退屈させられること
- 第二形式 何かに際して退屈している
- 第三形式 何となく退屈だ
前者の例は、第一形式、つまり何もすることがなくて待つことに退屈させられる状態です。
人を待っていたり、お店の行列に一人で並んでいたり、という場面も当てはまります。
その場が、期待しているものを提供してくれない状況下で、時間が進まない。
という私たちにとっては身近な退屈です。
後者は、第二形式、つまりパーティに際してハイデガーは退屈しているわけです。
これは、「暇ではないが退屈している」という状態です。
ここで重要なのは、実はパーティ自体が気晴らしであるということです。
気晴らしと退屈が混ざり合っているため、第一形式ほど明確に退屈が意識されません。
そして、第三形式に関しては、このような例は挙げられていないようです。
しかし、「何となく退屈だ」も、多くの人が思い当たるのではないでしょうか?
「人生何となく退屈」「何となく面白くない」「何か面白いことないかな…」
みたいな明確な行動ではなく、人生や日々の生活に関して、漠然としたつまらなさを感じている状況です。
ハイデガーは、これらの3つの形式は、一から三になるに連れ、退屈の度合いを深めていくといっています。
しかし、ハイデガーは、気晴らしで払拭することが困難な、退屈の第三形式に価値を見出そうとします。
ハイデッガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよーこれがハイデッガーの退屈論の結論である。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫
しかし、『暇と退屈の倫理学』では、この答えに納得していません。
確かに「退屈は自由へ開かれているのだから、決断して自由を実現しろ」と言われても、ピンとこないんですよね…
もう少し答えが欲しくなるというのが正直なところでしょう。
「環世界」とは?
「第六章 暇と退屈の人間学」は、理論生物学者ユクスキュルの提唱した「環世界」という概念が紹介されます。
「環世界」概念を、一言でいえば、「それぞれの生物は実はそれぞれの世界を認識し生きている」ということです。
人間の五感は決して普遍的なものではありません。
例えばダニは、人間には当たり前である、視覚や聴覚がありません。
一方で、人間は「18分の1秒」以内に起こることは、感覚としてとらえることができません。
しかし、ベタという魚は、「30分の1秒」までを、1つの「瞬間」としてとらえることができます。
これが意味するのは、人間にとって存在しない「18分の1秒」以下の出来事が、ベタにとっては存在するということです。
つまり、文字通り「人間にとっての世界とベタにとっての世界は違う」ということです。
人間は1つの「環世界」にひたっていられない
この環世界の話は非常に面白いのですが、ここからが非常に重要なところです。
まず環世界は移動が可能です。
その例として、盲導犬が挙げられています。
盲導犬の訓練は、人間の環世界を獲得するための訓練です。
人間にとって危険な障害物も、犬にとっては簡単に飛び越えられるものであり、犬の環世界では危険と認識されません。
つまり、盲導犬は、訓練を通して犬の環世界から人の環世界へ移動するのです。
そして著者は、人間はこの環世界を移動する能力が、他生物よりも圧倒的に優れているといっています。
盲導犬の訓練に比べれば、人間が新たな環世界を獲得するのは容易です。
例えば、同じ石を見たとしても、鉱物学者にとっての石と、そうではない人にとっての石は、違うものになります。
認識が異なるのですから、これも異なる環世界を生きているということになります。
しかし、もともと鉱物学者ではない人であっても、鉱物学を勉強することで、鉱物学者の「環世界」に近づくことが可能です。
そして、残念ながら高い環世界移動能力こそ、人間の退屈の原因なのです。
ハイデガーの言葉を借りると、動物は1つのことに「とりさらわれている」
しかし、人間は環世界移動能力が非常に高い、が故に1つのことにひたっていられません。
だから退屈するのです。
退屈の第三形式=第一形式
「第七章 暇と退屈の倫理学」では、著者國分功一郎がハイデガーを批判しながら議論を進めていきます。
ハイデガーは、退屈の第三形式に価値を見出しましたが、本書では第二形式に可能性を見出そうとします。
人間は普段、第二形式がもたらす安定と均整のなかに生きている。しかし、何かが原因で「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるときがある。自分は何かに飛び込むべきなのではないかと苦しくなることがある。そのときに、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫
まず、ハイデガーが重きをおいていた第三形式ですが、これは第一形式と何が変わらないのか?という疑問を呈します。
第一形式の退屈を紐解くと、時間を失いたくない、もっと違うことに時間を費やす必要があるのに、駅で待つ必要がある、そのために退屈が生じるという見方ができます。
そして、「もっと違うこと」の代表格は仕事です。
例えば、仕事の合間の2日間で旅行に行ったとして、4時間も駅で待つことは非常に勿体ない。
しかし、1か月仕事の休みをもらいゆったりと旅行する場合、その乗り換えで4時間待つ場合はどうでしょうか?
それほど切迫した「時間が全然過ぎない…」という感覚を持たないのではないでしょうか。
つまり、第一形式の「時間が全然過ぎていかない」という退屈は、仕事など他にやるべきことと密接に結びついているようです。
このことについて、ハイデガーは、退屈の第一形式は日々の仕事の奴隷になっているから生じると言っています。
その点は著者も支持した上で、第三形式の退屈に陥り決断して何かに打ち込む人と、第一形式の退屈は根本的に同じであるといいます。
どちらも退屈から逃れるために何かの奴隷になっているからです。
そして、「基本は退屈の第二形式にいて、時おり第三形式=第一形式に逃げ込む」のが人間である、というのが著者の見解です。
第二形式には余裕がある
気晴らしと退屈が混ざり合った退屈の第二形式は、余裕があります。
なぜなら、何かの奴隷にはなっていないからです。
そして、ここに退屈を打開するための可能性が見えてきます。
通常、人間は考えなくて良いように安定した環世界を獲得し習慣化しようとします。
もう少し掘り下げると、考えることは非常にエネルギーを使うため、周囲の環境を一定のシグナルに変換しようとします。
例えば、いつも歩いている街では、いちいちある建物に気を取られないように、それは「既知の建物である」というラベルを貼って認識処理するようになるイメージですね。
しかし、時おり「習慣化された自分の環世界」を破壊するような出来事が起きます。
それは決して大げさなものだけではありません。
いつも通っている道に出来た新しい建物であるとか、いつも乗り換える駅が工事中であるとか、そんなことも当てはまります。
いつもは何も考えず通り過ぎてしまうところに、異分子が「不法侵入」してくる感覚です。
習慣化されていない状況や出来事に直面したとき、私たちはそのことについて考えることを、いわば強制されてしまうのです。
先ほどの言葉でいえば、1つのことに「とりさらわれ」「動物になっている」状態です。
人は何かを考える必要があるとき、退屈が入り込む余地はありません。
状況を整理するとこんな感じになります。
退屈の第二形式は何かの奴隷ではない分、余裕があります。
余裕があるということは、考えるためのものを受け取ることができる。
つまり、そこには1つのことに「とりさらわれ」「動物になること」への可能性が開かれているのです。
退屈に向き合うために
いよいよここまでを踏まえた『暇と退屈の倫理学』の結論部分に入ります。
まず重要なのは、贅沢を取り戻すことです。
観念を受け取る消費ではなく、しっかりと物を受け取り浪費し、満ち足りることです。
しかし、物を受け取るには訓練が必要です。
ハイデッガーが退屈したのは、彼が食事や音楽や葉巻といった物を受け取ることができなかったから、物を楽しむことができなかったからに他ならない。(中略)大変残念なことに、ハイデッガーがそれらの楽しむための訓練を受けていなかったからである。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫
第二形式の退屈を感じるハイデガーを皮肉っていますが、第一形式の退屈に挙げている例をとっても当てはまります。
鉄道や地理が好きで詳しい人であれば、駅の時刻表、別の地域までの距離の一覧表を楽しめるでしょう。
建築を学んでいたのであれば、無趣味な駅舎でも、その構造に興味を持つかもしれません。
訓練を経ることは、世の中のあるありとあらゆる物を受け取る可能性を広げます。
退屈の第二形式を生きる人間にとって、贅沢を取り戻すことは、気晴らしを楽しむことです。
それは人間であることを楽しむことです。
気晴らしを楽しむことができれば、第三形式=第一形式へ逃げ込む必要はありません。
繰り返しになりますが、第二形式の退屈は余裕があります。
だからこそ、「とりさらわれ」「動物になる」可能性へと開かれているのでした。
「とりさらわれ」「動物になる」になることは、退屈を感じることのない状態です。
かくして、國分功一郎は退屈とどう向き合うべきかについて次の結論に至ります。
〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』新潮文庫
終わりに
結論だけみれば非常にシンプルです。
「人間であること=退屈」であり、「動物になること」がそれから逃れる術である。
そして、「動物になる」ためには、気晴らしを楽しむ訓練が必要ということでした。
私は、この訓練それ自体も「動物になること」の可能性を秘めていると思います。
私たちは、しばしば映画やドラマ、漫画、本などに「とりさらわれ」「動物になって」います。
映画やドラマ、漫画、本は、エンターテインメント性の有無にかかわらず、何らかの知識や示唆を読み取ることができます。
つまり、それらを見ること、読むことは何らかの訓練に通じているはずです。
「動物になる」ことは、それ自体が訓練となり得るわけで、それにより気晴らしを楽しめるようになり「動物になる」可能性がより開かれる。
つまり、以下のような好循環になり得るのです。
動物になる ⇒ それ自体が訓練になる ⇒ 気晴らしを楽しめる ⇒ 動物になる
「退屈」と「消費」の悪循環が発生しているのが、現代の消費社会でした。
それに対して、私たちは、「気晴らし」と「動物になること=訓練」の好循環で対抗しなければいけません。
『暇と退屈の倫理学』は、単なる哲学書ではなく、実践的な本です。
さらに、暇と退屈というのは、考古学、歴史学、経済学、社会学、生物学など、様々な分野の知見を動員する必要のある壮大な議題でした。
今回おおまかに結論までの道筋を紹介してきましたが、著者は本書を通読し自分なりに考えて初めてこの結論は意味あるものになるといっています。
ですから、ぜひ実際に読んでみることをお勧めします。
ちなみに本書を読んだ後は、続編『目的への抵抗』も非常におすすめ。
本書の議論をさらに深堀りし、「人間らしく生きる喜びと楽しみ」について語られます。