【要約/感想】『読書について』(ショーペンハウアー)~読書好きへの戒めの読書論~

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読書について(ショーペンハウアー)

今回紹介するのは、ドイツの哲学者アルトゥール・ショーペンハウアー『読書について』

読書論といえば読書の効用や良さを語るものが多いのですが、本書は「読書好きへの戒めの読書論」です。

ショーペンハウアー独特のアフォリズムはとても痛快で読みやすく、読書好き必読の古典といえるでしょう。

目次

『読書について』はどんな本?

ドイツ ベルリン

アルトゥール・ショーペンハウアー(1788~1860)
ドイツの哲学者。主著『意志と表象としての世界』
『余禄と補遺』に収録される『幸福について』『自殺について』『読書について』は日本でも長く読み継がれる。

アルトゥール・ショーペンハウアーは、19世紀初頭から半ばに台頭したドイツの哲学者です。

ショーペンハウアーが生きた時代は、カント哲学の系譜に連なるドイツ観念論(シェリング、フィヒテ、ヘーゲル)の絶頂期。

ベルリン大学講師時代、当時人気のヘーゲルに対抗心を燃やし同じ時間に講義を設定したというエピソードがあり、高いプライドと強い反発心が窺えます。

残念ながらショーペンハウアーの講義にはわずか8名しか聴講せず惨敗したそうですが、、

そんな時代においてショーペンハウアーは、カント哲学を引き継ぎつつも、そこに古代インド哲学のエッセンスを取り入れ、人間の「意志」を中心とした思想を展開します。

ドイツ観念論とは一線を画すその思想は、後のニーチェなどにも影響を与えました。

『余禄と補遺』

主著は『意志と表象としての世界』ですが、実は日本で多く読まれているのは『余禄と補遺』という著作。

『余禄と補遺』は、『幸福について』『自殺について』、今回紹介する『読書について』など日本で文庫化され読み継がれる作品がまとまっています。

これらは岩波文庫や光文社古典新訳文庫からアクセス可能な上、文体も読みやすいためおすすめ。

そして、今回紹介する光文社古典新訳文庫の『読書について』には、「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」の三篇が収められています。

『読書について』要点まとめ

読書
『読書について』目次
  • 「自分の頭で考える」
  • 「著述と文体について」
  • 「読書について」

ここからは、各章について内容をご紹介します。

「自分の頭で考える」

いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜吞みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうがはるかに価値がある。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

「自分の頭で考える」の章については、この一言にすべてが集約されていると言っても過言ではありません。

あることについて自分で考えたこと、ただ知識を得た人の対比は、本書の「土地についての知識」の例がとても分かりやすいです。

自分で考えた人
  • その土地に実際に住んだことがある
本から知識を得た人
  • 旅行案内書を眺めて土地に詳しくなる

百聞は一見に如かずともいわれるように、どんなにガイドブックやYouTubeなどでその土地について詳しくなったとしても、その土地に住んだことがある人には適いません。

所詮他人を通して得た知識は、他人の角度から切り取った寄せ集めの知識だからです。

一方で、ある事柄について自分の頭で考えて得たことは、我が家のように隅から隅まで理解が及びます。

自分の頭で考えてたどりついた真理はや洞察は、私たちの思想体系全体に組み込まれ、全体を構成するのに不可欠な部分、生き生きとした構成要素となり、みごとに緊密に全体と結びつき、そのあらゆる原因・結果とともに理解され、私たちの思考方法全体の色合いや色調、特徴を帯びるからだ。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

多読はするな

そういうわけで、ショーペンハウアーはむやみやたらに本を読むことを否定します。

読書は自分で考えることのの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

活字にさえ慣れてしまえば本を受動的に読み続け、ただただ他人の意見を頭に流し込むことはそんなに難しいことではありません。

しかし、そういった多読は「自分で考えること」から最も遠ざかる行為なのです。

読書は材料

しかしショーペンハウアーは、読書自体を全否定しているわけではありません。

なぜなら、読書は「精神に材料を供給する」からです。

どんなに優れた思想家も、常に自分の頭で考えることができるわけではありません。

思索以外の時間に本を読むことは、思索のために材料を仕入れる有益なことだといいます。

しかし、決して読書(=他人に考えてもらうこと)にかまけて、自分で考えることをやめてはいけません。

自分で考える人は、まず自説を立てて、あとから権威筋・文献で学ぶわけだが、それは自説を強化し補強するためにすぎない。しかし博覧強記の愛書家は文献から出発し、本から拾い集めた他人の意見を用いて、全体を構成する。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

「著述と文体について」

2つ目の「著述と文体について」は、当時のドイツ文学の凋落を嘆き、ドイツ語の表現、文体に対して、ショーペンハウアーが苦言を呈する内容。

当時のドイツと現代日本では時代も社会状況も全く異なりますが、現代にも通ずる明晰な批判が数多く含まれています。

物書きの種類

ショーペンハウアーは、物書きには次の2つのタイプが存在するといいます。

テーマがあるから書くタイプ
  • すでに思想や経験がある
  • 伝える価値があると思い書く
書くために書くタイプ
  • お金のために書く
  • 書くために考える

そして、もちろんショーペンハウアーは前者に価値を置き、後者を徹底的にけなします。

できるかぎり長々と考えをつむぎだし、裏づけのない、ピントはずれの、わざとらしい、ふらふら不安定な考えをくだくだしく書き、またたいてい、ありもしないものをあるように見せかけるために、ぼかしを好み、文章にきっぱりとした明快さが欠けることから、それがわかる。ただ紙を埋めるために書いているのが、すぐばれる。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

お金のために書くタイプを「へぼ作家」や、ジャーナリストという言葉を皮肉り、「ジャーナル=日々」の糧を稼ぐ「日給取り」と呼ぶなど散々な物言い。

この根底にあるのは、当時のドイツ文学の悲惨さの元凶は、お金稼ぎとしての物書きの存在だというショーペンハウアーの強い確信だと思われます。

ライティングは伝えることがあってのもの

価値のある思想や体験を伝えるためではなく、お金を稼ぐために書く人が増えたせいで、作品の質が低下するという状況。

この傾向は現代においてますます強まっていることは間違いありません。

誰でもKindleで本を出版できる、誰でもWEBで発信できる現代において、ライティングといえば、SEOライティングやセールスライティングといった稼ぐための技術に成り下がっています。(このブログが言えたことではありませんが、、)

しかし書くことは、伝えるべきことがあってこそするものです。

ライティングに関わる人間は、決して忘れてはいけない意識ですね。

匿名性への非難

ショーペンハウアーは、当時の評論雑誌の匿名性を猛烈に非難します。

名を明かして執筆する者を匿名で攻撃するとは、恥知らずだ。匿名批評家は他人や他人の仕事について公表したり隠し立てをしたりするくせに、自分で責任をとろうとせず、名乗り出ない者だ。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

正体を明かさない覆面の人が、民衆の前で他人を非難したらすぐに捕まることでしょう。

一方で、匿名での物書きの批判は許され、嘘をついても責任を取る必要がない。

その不自然さをショーペンハウアーは指摘します。

さてそんなショーペンハウアーは、現代のネット掲示板やSNSを見てどう感じるのでしょうか。

「著名人をネットでたたく」「SNSで根拠薄弱な情報を拡散する」

ショーペンハウアーに指摘されていた匿名性の弊害が、どんな立場の人間にも浸透したのが現代です。

このブログも同じ穴の狢ですが、できるかぎり誤りのない情報を提供していきたいですね。

「読書について」

「読書について」は、これまで以上にショーペンハウアーのエッジの効いたアフォリズムが炸裂する章。

特に読書家には刺さる内容が多く、すべての読書好きに読んで欲しい内容です。

本とは他人の足跡

紙に書き記された思想は、砂地に取り残された歩行者の足跡以上のものではない。なるほど歩行者がたどった道は見える。だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読書が自分の目を用いなければならない。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

一般的に「読書は良いこと」とされています。

しかし本ばかり読んでいる人は、砂地に残された足跡を眺めているに過ぎません。

足跡を残した人が何を見たかは足跡をいくら眺めても分かりません。

私たちは、人よりも注意深く足跡を眺めただけで満足したり、足跡の形状を正確に再現することに躍起になったりしてはいないでしょうか?

本に記された思考を知るには、あくまで自分の頭を用いなければなりません。

新刊に手を出さず、古典を読む

ショーペンハウアーは、悪書は限りある時間と金を注意力を奪い取るため、「知性を毒し、精神をそこなう。」と言います。

それでは悪書を読まないためにはどうすれば良いのか?

その答えは、お金のために書かれた大衆受け狙いの新刊に手を出さず、古典を読むことです。

ショーペンハウアーは大衆文学の読者について次のように指摘します。

おそろしく凡庸な脳みその持ち主がお金めあてに書き散らした最新刊を、常に読んでいなければならないと思い込み、自分をがんじがらめにしている。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

たしかに、本屋の話題の本のコーナーには、最近売れている本が所狭しと並べられ、「なんとなく読んでおいた方が良いのでは?」という気分にさせられてしまう。

しかし、考えてみればそれらの本はただ「新しい」ということしか分かっていません。

あらゆる時代、あらゆる国の、ありとあらゆる種類のもっとも高貴でたぐいまれな精神から生まれた作品は読まずに、毎年無数に孵化するハエのような、毎年出版される凡人の駄作を、今日印刷された、できたてほやほやだからというだけの理由で読む読者の愚かさと勘違いぶりは、信じがたい。

ショーペンハウアー(鈴木 芳子訳)『読書について』光文社古典新訳文庫

今だったら確実に炎上するであろうと思われるこの部分。

今日では、マーケティングの力によりさらにこの傾向は顕著になっていると思われます。

出版業界としては、ぼろぼろになるまで古典を繰り返し読み続ける読者は金になりません。

「毎年出版される凡人の駄作」を次から次へと買ってもらうために、そこに価値をつけて売り出していく必要があるわけで、その結果が奇抜なポップや謳い文句、本屋の話題書コーナーだというわけです。

しかし、世界で読み継がれてきた古典ではなく、評価の確定していない新刊を読む理由は果てして何でしょうか?

私たちは本の選び方を今一度問い直してみるべきかもしれません。

終わりに

今回は、ショーペンハウアー『読書について』をご紹介しました。

ショーペンハウアーは、「本を読んでばかりではなく自分の頭で考えろ」と読書家を戒めます。

もちろんそれは本書を読んでいる最中も例外ではありません。

私たちは本書を読んでいる間、自分で考える代わりにショーペンハウアーに考えてもらっているわけです。

もし私たちが本書の内容を鵜呑みにし、偉大な哲学者の金言としてただ受け入れるなら、ショーペンハウアーはそれを見てきっと皮肉ることでしょう。

『読書について』を本当の意味で自分の知識とするには、しっかりと自分の目を用いてショーペンハウアーが見た景色を知ろうとする姿勢が必要なのです。

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この記事を書いた人

大学時代は社会学専攻。
現在は、事業会社のWEB/メールマーケティングに携わる。


月5~10冊ほど読書します。
好きなジャンルは哲学、社会科学、マーケティング、データサイエンスなどで、知的好奇心に突き動かされジャンル問わず読みます。

土曜の朝の「さて今日は何をしよう」というぼんやりした時間が1週間で1番好きです。

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