今回紹介するのは、野矢茂樹著『言語哲学がはじまる』です。
本屋で本書を見たとき、「言語哲学のはじまり」ではなく『言語哲学がはじまる』というタイトルがまず気になりました。
「言語哲学のはじまり」だと、なんだか淡々と言語哲学について説明されている様子が思い浮かびます。
一方で、『言語哲学がはじまる』だと、「言語哲学」が自ら動き出していくような、そんなエネルギーを感じる気がするのは私だけでしょうか。
実際に本書は、著者の「言語哲学は面白いんだ」という気持ちと、私たちに「考えて欲しい」というエネルギーが伝わってくる本です。
また、本書はウィトゲンシュタインの入門書としてもおすすめです。
ウィトゲンシュタインを理解するには、まずフレーゲやラッセルを理解する必要がありますが、本書ではウィトゲンシュタインに繋がる形で、その2人の考え方がとても明快に説明されています。
今回は、そんな本書のポイントを「意味」というキーワードから解説していきます。
ぜひ最後までお付き合いくださいませ。
『言語哲学がはじまる』はどんな本か
言語というのは、人類特有の謎であり、古来より多くの分野の考察対象となってきました。
別の記事で紹介している『言語の本質』は、実験や観察による社会科学的アプローチを採用した研究です。
そして本書は「言語とは何か?」という問いに対して、哲学的アプローチをとります。
著者の野矢茂樹は、ハイデガーと並び20世紀最大の哲学者とも称される、ウィトゲンシュタインの研究で有名です。
ウィトゲンシュタインの最も有名な著書『論理哲学論考』といえば、日本では岩波文庫版の訳がスタンダードです。
特に、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない。」はあまりにも有名ですが、岩波文庫でこのように訳したのは、本書の著者野矢茂樹です。
また、以前読んだ『『論理哲学論考』を読む』という『論理哲学論考』の解説書は、非常にハイレベルな内容を平易な語り口で紹介してくれます。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』については、下記の記事でご紹介しているので、ぜひご覧ください。
さて、今回の『言語哲学がはじまる』は、そんな著者が、フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタインという3人の哲学者を紐解き、言語哲学の考え方を分かりやすく解説してくれます。
とんでもない知性の持ち主たちが三人寄ってたかって、「ミケは猫だ」ってどういう意味なんだ、そもそも言語って何なんだ、いや、そんなこといきなり言うんじゃなくて「猫」ってどういう意味よ、それを言うなら「ミケ」だって、と論じ合ってる感じです。
野矢茂樹『言語哲学がはじまる』より抜粋
ここだけでもなんだか面白そうですよね。
本書は非常に盛り沢山の内容ですから、全てを紹介することは出来ません。
ここからは、本書のポイントでもある「意味」を中心テーマとして、フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタインの思考の一端をご紹介します。
意味とは何か?
文の意味、語の意味って何でしょうか?
改めて問われてみると難しいものです。
まず最初に言語哲学の舞台に登場する、ドイツの哲学者ゴットロープ・フレーゲは、意味には2つの側面があると考えました。
指示対象:その言葉が「なに」を指すか
意義:その言葉がその指示対象を「いかに」指すか
例えば、「山」という言葉の指示対象は、富士山なり高尾山なり、エベレストといった、個々の山です。
一方で、「山」の意義とは、富士山なり高尾山を「いかに」指すかですから、いかに「山」と「山ではない」を区別するかということです。
そういった意味では、「周りよりも高く盛り上がっている場所かどうか」みたいな区別の仕方が当てはまるでしょうか。(ちなみに山には厳密に何メートル以上という基準はないようです。)
つまり、指示対象とはその言葉が指す具体的なもの、意義はその言葉の定義に近いイメージです。
固有名に意義はあるか?
「山」という名詞には、意味の2つの側面、指示対象と意義があるのは、感覚的にも分かりやすいことです。
それでは固有名(いわゆる固有名詞)はどうでしょうか?
例えば「富士山」の指示対象は、山梨県と静岡県の境にあるあの〈富士山〉です。(ここでは言葉としての「富士山」と実際の〈富士山〉を区別して書いています)
それでは「富士山」の意義とは何でしょうか?
「富士山」という言葉が、〈富士山〉をいかに指すか?なんて言われても、あんまりピンとこないですよね。
「いや「富士山」は実際の〈富士山〉を指し示すものでしかないでしょ」と。
ここに意義の付け入るスキはないような気がします。
しかし、フレーゲは固有名の意味は指示対象だけでは、説明できないことがあるといいます。
ここで1点注意として、フレーゲは固有名を「富士山」という言葉だけではなく、「日本一高い山」や「静岡と山梨の県境の3776mの山」いった実質的に1つであるものを定める言葉も固有名と捉えます。
例えば、「静岡と山梨の県境の3776mの山と富士山は同一の山である」という文の中の、「富士山」と「静岡と山梨の県境の3776mの山」という固有名は、同じ指示対象として〈富士山〉を指しています。
もし固有名の意味が指示対象だけであれば、「静岡と山梨の県境の3776mの山」=「富士山」は全く同じ意味ですから、「富士山と富士山は同一の山である」と言い換えても何の問題もないはずです。
しかし、「静岡と山梨の県境の3776mの山と富士山は同一の山である」と「富士山と富士山は同一の山である」という文が同じ意味を持っているとは感覚的にも納得がいかないですよね。
「認識価値」の違い
もう少し踏み込んで考えていくために、実際にはあり得ないですが、こんな世界を仮定してみましょう。
静岡県民は、静岡からいつも見ている〈富士山〉を「静岡山」と呼んでいて、山梨県民は山梨側からみている〈富士山〉を「山梨岳」と呼んでいます。
そして、お互いの県の行き来はなく、お互いにそう呼んでいることを知らない世界線で、珍しく両県民が顔を合わせた場面を想像してみてください。
山梨県民 「最近山梨岳山頂付近に雪がうっすら見え始めたよね~」
静岡県民 「山梨岳?何それそんな山あるの?」
山梨県民 「え、山梨岳知らないの!? 日本一高い山知らないとか…」
静岡県民 「あー山梨岳って静岡山か」
考えれば考えるほど荒唐無稽な会話ですが、最後の言葉が重要です。
「山梨岳」と「静岡山」は固有名であり、指示対象は同じ〈富士山〉です。
もし固有名の意味が指示対象だけであれば、最後の言葉は「あー静岡山って静岡山か」と言い換えても何の問題もありません。
しかし、この場面の静岡県民にとって、「あー静岡山って静岡山か」と「あー山梨岳って静岡山か」の文が持つ価値は全然違います。
なぜなら、静岡県民は、山梨県民が言っている「山梨岳」が、自分たちの言う「静岡山」のことだと分かったからです。
このことをフレーゲは、「認識価値」の違いと表現します。
そして、この「認識価値」の違いを説明するためには、固有名には指示対象だけではなく意義が必要だといいます。
意義とは、その言葉がその指示対象を「いかに」指すかです。
実際に、静岡から見える〈富士山〉と、山梨から見える〈富士山〉は違います。
そして、この世界線では、「静岡山」は静岡側(南)から見るときのあの〈富士山〉、「山梨岳」は山梨側(北)から見たあの〈富士山〉という、指示対象の提示の仕方が異なることになります。
同じ指示対象でも、意義が異なることで、「あー山梨岳って静岡山か」の価値が保たれるのです。
意義を認めないラッセル
フレーゲは、意味には指示対象と意義があるといいました。
しかし、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、意味は指示対象だけであり、意義という側面を認めようとしません。
とはいえ、先ほどの富士山の例からしても、意義を認めないというのは非常に難しい主張になりそうです。
ラッセルがそのため用いるのは、確定記述という概念です。
確定記述と命題関数
確定記述とは、ただ1つの対象を表すが個体指示語ではないものです。
ラッセルは、フレーゲのもとでは固有名とされた「日本一高い山」を固有名ではなく、確定記述といいました。
そのため、「静岡と山梨の県境の3776mの山」や「平成25年に世界文化遺産に指定された日本の山」は固有名ではありません。
そして、先ほどの「日本一高い山と富士山は同一の山である」という文を、次のように読み替えます。
あるxがただ1つ存在し、xは日本一高い山であり、かつxは富士山と同一の山である
文系の私は、急にxなんて出てくると混乱してしまいますが、これは命題関数という考え方を押さえておく必要があります。
命題関数とは、個体から真偽を出力する関数です。
「xは山だ」という命題関数のxに〈高尾山〉を入れたら「真」が、〈グランドキャニオン〉を入れたら山ではなく谷なので「偽」が出力されます。
そして、「日本一高い山」という確定記述を、この文では「xは日本一高い山だ」という命題関数に読み替えています。
つまり、先ほどの文は、「xは日本一高い山」が「真」でもあり、かつ「xは富士山と同一の山」も「真」にもなるxがただ1つあります、という主張をする文だということです。
これは「富士山と富士山は同一の山である」とは明らかに持っている情報量が違います。
また、「xは山だ」に「山」の具体的な指示対象(高尾山等)を入れたら「真」を出力するように、命題関数に置き換えた表現では、意義については考える必要がありません。
「富士山」も確定記述?
それでは、先ほどの奇妙な世界線における「静岡山」と「山梨岳」の問題はどうなるでしょうか。
「静岡山」と「山梨岳」は、確定記述ではなく固有名のように思えます。
しかし、ラッセルはそういった固有名のように思える言葉すら、全て確定記述であるといいます。
ここは「富士山」という実際の言葉を例に、本書で説明されています。
いま向こうに見えている「あれ」が「富士山」なのではなくて、「あれ」を「富士山」と認定させる知識が、「富士山」という語の意味なのではないでしょうか。つまり、「ザ・山梨県と静岡県にまたがる、現在日本で一番高い山」といった確定記述が「富士山」の実質的内容なのです。
野矢茂樹『言語哲学がはじまる』より抜粋
例えば、富士山とそっくりの山を海外で見たとしても、それは「富士山」とは言いません。
なぜなら、富士山は日本にあると知っているからです。
つまり、ラッセルは、何かしらの「富士山」を特定する知識が列挙が、「富士山」の確定記述として存在するから、「富士山」は固有名ではないと主張しているのです。
確定記述であれば、先ほどのように命題関数に読み替えることが可能となり、そこに意義を考える必要性はなくなります。
「あー山梨岳って静岡山か」
⇒あるxがただ1つ存在し、xは山梨岳であり、かつxは静岡山である
「あー静岡山って静岡山か」
⇒あるxがただ1つ存在し、xは静岡山であり、かつxは静岡山である
こうしてみると、前者と後者の認識価値の違いは明らかです。
ウィトゲンシュタインの回答
ここまでフレーゲとラッセルの主張を「富士山」と「静岡山」と「山梨岳」を例に紹介してきました。
どちらも紹介した部分だけだと納得できるような気がしなくもないのですが、著者はそれぞれの議論がはらむ問題点も同様に指摘しています。
その詳細はぜひ本書を読んでいただくとして、ここでは最後にウィトゲンシュタインの見解を見ていきます。
ウィトゲンシュタインの考えは驚くほど単純です。
ウィトゲンシュタインは、「あー山梨岳って静岡山か」という文は、指示対象〈富士山〉について何かを語ったことではなく、2つの語を交換して使ってもいいということを表しているといいます。
六・二三 二つの表現が等号で結ばれるとき、それは、両者が互いに置換可能であることを意味している。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より抜粋
静岡県民にとって、「それまで〈富士山〉を名指すとき、「静岡山」という言葉を使っていたけど、実は「山梨岳」と言っても良いんだ」という発見だということです。
これは、世界について何か語っているわけではなく、言語の使い方についての言明です。
言語の使い方が変わっただけですから、それ自体に認識価値はありません。
しかし、新たな言語規則が採用されたという変化において、認識価値が示されているというのがウィトゲンシュタインの解決である
と著者はとらえているようです。
終わりに
今回は、『言語哲学がはじまる』の中から、私なりに少し奇妙な世界線を想像しながら、内容を紹介してきました。
実は、こういった思考実験こそ、哲学の面白い部分かもしれません。
日常生活では経験しないような極端な仮定から、答えのないことについて考えていく。
そういった面白さを感じることが出来た読書体験でした。
この楽しさをおすそ分けしたいというのが、この本を書いた動機です。何が楽しいって、みんなが試行錯誤していて、これが正解ですっていうのが見えてこないけれども、どうやら前に進んでいるみたいだぞという手ごたえがある。読者にも感触を味わってもらいたい。
野矢茂樹『言語哲学がはじまる』より抜粋
著者の、この考えに私自身も乗っからせていただき、『言語哲学がはじまる』を読む楽しさをおすそ分けしたいと思いながら、この記事を書いています。
つまり、言語哲学のおすそ分け(=『言語哲学がはじまる』)の、さらにおすそ分けです。
ですから、今回紹介した内容は、言語哲学のほんの欠片に過ぎません。
ですから、まずは『言語哲学がはじまる』を実際に読んで、実際に身近な言語の疑問について考えてみるのがおすすめです。
もちろん本書は、身近な疑問を分かりやすく扱いながらも、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタインの核心に踏み込んでいくハイレベルな内容です。
本書で「こういったことを考えるのって面白い」と思ったならば、ぜひウィトゲンシュタインなど個々の哲学者の思想にまで手を伸ばしてみてはいかがでしょうか。