今回ご紹介するのは、國分功一郎著、『暇と退屈の倫理学』です。
「退屈」という言葉はもとより、「暇」という言葉にも、一般的にあまり良いイメージがありません。
しかし、一方で「暇ではない=忙しい」ことは、決して歓迎できる事態ではありません。
「忙しくない=暇」であれば、「暇」はもっと喜ばれるべきものであるはずです。
私は、かなり暇を歓迎するタイプのため、そんな疑問を持ちながらこの本を読み始めました。
非常に好奇心をくすぐられる盛り沢山の内容のため、前半と後半に分けてご紹介します!
ぜひ最後までお付き合いくださいませ。
ちなみに本書を読んだ方は、続編『目的への抵抗』も非常におすすめ。
本書の議論をさらに深堀りし、「人間らしく生きる喜びと楽しみ」について語られます。
『暇と退屈の倫理学』はどんな本?
本書は、一言でいえば「私たちにとって暇とは何か、そして退屈とどう向き合うべきかに答える本」です。
著者の國分功一郎さんは、東京大学の教授。
主に哲学に関する著書が多いですが、初学者でも非常に読みやすい本が多いです。
『はじめのスピノザ 自由へのエチカ』なども読みましたが、非常に文章が容易で分かりやすい。
しかし本書が、哲学という注目を浴びにくいジャンルにも関わらず、ここまで売れた理由は他にもありそうです。
1つは、「暇と退屈」という身近なテーマである点。
そして2つ目は、著者がしっかりと「どう向き合うべきか」に答えを出している点です。
哲学関連の本は、「物事はかくかくしかじか」と述べて終わりの本が多いです。
それが面白くもあるのですが、普通に読んだら「それで結局何?」となってしまいます。
しかし、本書は『暇と退屈の”倫理学”』ですから、しっかりと「人間は~すべき」が語られます。
その明快さが本書を有名にしたのではないでしょうか。
『暇と退屈の倫理学』の構成
本書は、序章と結論、そのほか7章で構成されています。
序章 「好きなこと」とは何か?
第1章 暇と退屈の原理論―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
第2章 暇と退屈の系譜学―人間はいつから退屈しているのか?
第3章 暇と退屈の経済史―なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?
第4章 暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か?
第5章 暇と退屈の哲学―そもそも退屈とは何か?
第6章 暇と退屈の人間学―トカゲの世界をのぞくことは可能か?
第7章 暇と退屈の倫理学―決断することは人間の証しか?
結論
第1章~5章では、暇と退屈がこれまでどのように分析されてきたか、が紹介されます。
そして、第6章からは、著者が1章~5章までの内容を解釈、援用、時には批判しながら、結論を出すという構成になっています。
この記事では[前半]として、第1章~4章を重要なポイントに絞ってご紹介します。
それ以降の章については、[後半]として次の記事にまとめています。
いつから人は退屈しているのか?
「第二章 暇と退屈の系譜学」では、退屈という問題が意識されているのは、ここ数百年の問題ではなく、非常に根深いものであることが示唆されます。
本書によれば、約1万年前から、人は定住をし始めたようです。
定住し始めた理由についての議論も非常に興味深いので、ぜひ読んでいただきたいのですが、ともかくとして「定住が退屈をもたらした」というのが、ここでの結論です。
それまで人類は遊動生活をしていました。
今私たちが、「3か月おきに引っ越してください」と言われて、負担を感じずに生きていけるでしょうか。
しかも、1万年前の安全かもわからない大自然の中で、環境を変えながら生きるというのは、想像を絶する緊張感があることでしょう。
裏を返せば退屈する暇なんかありません。
人間は非常に高い情報処理能力を持っていますが、それをフルに発揮することができるのです。
しかし、定住は違います。目に入るのはいつもと同じ光景、同じ環境です。
だからこそ、その高い情報処理能力を持て余すことになり、退屈へとの向き合う必要が出てくる。
これが1万年来の退屈の始まりなのです。
暇と退屈の違い
「第三章 暇と退屈の経済史」では、暇と退屈は違うということが語られます。
- 単純に何もする必要がない時間
- 客観的条件
- 感情や気分
- 主観的状態
暇とは、単純に何もすることがない時間、する必要がない時間であり、客観的な条件に関わることです。
一方、退屈とは感情や気分という、主観的な状態です。
つまり、暇ではあるが、退屈ではないということもあり得るわけです。
本書ではその例として、経済学者ヴェブレンの『有閑階級の理論』に出てくる有閑階級が挙げられています。
19世紀頃までの有閑階級は、暇だけれども羨望の的となっていたようです。
それは、労働する必要がない状態、つまり暇であることを許された階級として、暇を生きる術を知っており、決して退屈ではなかったからです。
暇と退屈の関係性は次のように整理できます。
しかしその後、一部の選ばれた人だけではなく、多くの労働者にも暇が与えられるようになります。
資本主義に組み込まれた余暇
余程のブラック企業ではない限り、私たちには休日が与えられています。
一見、休日は労働の外、つまり資本主義の外にあると思うかもしれません。
しかし、実は休日が与えられるようになった大きな理由は、働く人にも休んで欲しいという企業の優しさではありません。
労働者を使って暴利を貪りたいのであれば、実は労働者に無理を強いることは不都合なのだ。労働者に適度に余暇を与え、最高の状態で働かせることー資本にとっては最も都合がよいのだ。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』より抜粋
最初読んだときはなかなかの衝撃的一説でしたが、言われてみればその通りですね。
本書ではその最初の例として、アメリカの自動車メーカー「フォード・モーター社」のフォーディズムが紹介されています。
現在、働き方改革により余暇は増えていますが、「休むことも仕事のうち」であり、結局仕事からは逃れられないということです。
それはさておき、ここで重要なのは、資本主義の発達により、これまで暇ではなかった労働者階級に余暇が与えられたことです。
余暇を知らなかった労働者は、暇を与えられても何もすれば良いか分からない、退屈状態に陥るのです。
退屈につけこむ消費社会
著者は、ここでガルプレイスの『ゆたかな社会』を紹介しています。
ガルプレイスの『ゆたかな社会』で論じられているのは、「私たちは自分で欲しい物を広告に教えてもらっている」ということです。
ざっくりといえば、「私たちに欲しい物があって企業がそれを作る」ではなく、「企業が私たちの欲望を作り出す」というのが現在の構造だということです。
「いや自分はそんなことはない!」と言いたいところですが、それを否定するのは難しい。
例えば、終わりのないiPhoneのモデルチェンジは本当に私たちが望んでいるのでしょうか?
実感できるレベルで進化しているのはカメラ機能くらいではないでしょうか。(そんなことを言うと多方面から怒られるかもしれませんが…)
しかし、新しいモデルが出ることにより、まだ使えるにも関わらず、最新モデルが欲しくなる。
これが、「私たちは自分で欲しい物を広告に教えてもらっている」の真相です。
急に暇に投げ出された労働者は、気晴らしを求め、作り出された欲望に従うことになります。
つまり、不断のモデルチェンジを求めているのは、実は消費者の退屈への気晴らに過ぎないということです。
浪費と消費
「第4章 暇と退屈の疎外論」では、哲学者・社会学者のボードリヤールの消費社会論が紹介されます。
ボードリヤールは、消費と浪費について次のように論じています。
浪費・・・必要以上の物を受け取る、限界がある
消費・・・観念や意味の消費、限界がない
例えば、欲求以上に受け取る、つまり腹八分目以上に食べようとするのは浪費です。
浪費は限界があるので、「もうこれ以上はいらない」という苦しみに近い満足をもたらします。
しかし、消費は満足をもたらしません。
ボードリヤールは、観念や意味の消費の例として「個性」を挙げています。
周りとの差異を表現するための手段として、ファッションであったり、インスタグラムに載せるために旅行やグルメを食べるなどの消費を行います。
しかし、「個性」は曖昧なものですから、消費によって「個性的」になることに、終わりはありません。
消費は、いつまでも満足できない、だからこそ退屈は終わりません。
退屈と消費の悪循環は続く
ガルプレイスとボードリヤールのここまでの話をまとめると、
余暇を得た労働者が、気晴らしを求め、企業から作り出された欲望に従うようになります。
そこで喚起される多くの欲望は、観念や意味の消費へと向かいますが、消費には終わりがありません。
終わりがないので退屈も際限なく続き、その退屈の気晴らしに企業がつけこむ。
つまり、現在の消費社会は、「退屈が消費を促し、消費が退屈を生み出す」という悪循環に陥っています。
この後、著者は第5章で退屈論の最高峰であるハイデガーの退屈論を分析し、この悪循環への解決策を見出そうと模索します。
ここからの紹介は後半の記事に譲りますが、『暇と退屈の倫理学』はここまでの内容だけでも非常に完成度が高いと感じます。
私も仕事ではマーケティングに携わっているため、特に消費社会の議論はとても興味深いものでした。
この文脈では、私も消費者の欲望を作り出している側です。
その視点から見ると、日本はこのままこの悪循環が加速していくかもしれません。
なぜなら、人口が減っているからです。
「浪費」には限界がありますから、人が減るということは浪費の上限値は下がります。
そこで、生産者が儲けるためには、限界のない「消費」を喚起し、1人当たりの欲求・欲望をより大きくすることしかありません。
しかし、「消費」の拡大は、より多くの満たされない人を生み出すことに他なりません。
そうならないためにも退屈への処方箋は、今後絶対に必要になるでしょう。
果たして、『暇と退屈の倫理学』はどのような答えを出すのでしょうか?
ぜひ後半もご覧ください。