今回紹介するのは、いわずと知れた哲学の名著、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』です。
哲学史の中でも異彩を放つ天才ウィトゲンシュタインのデビュー作にして、生前唯一の著書です。
初めて読んだとき、正直意味が分かりませんでした。
しかし、人生で初めて全然分からないのに読み進めたいと思う本でもありました。
今回は、そんな『論理哲学論考』をできるだけ分かりやすく解説していきます。
『論理哲学論考』および、ウィトゲンシュタインに興味を持つきっかけになれば幸いです。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとは?
ウィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』から、遺稿である『哲学探究』に代表される言語ゲーム論に至るまで、その変化を区分し{前期・中期・後期}ウィトゲンシュタインと呼ぶことがあります。
20世紀最大の哲学者といえば、ハイデガーかウィトゲンシュタインを挙げる人が多いですが、特に前期の『論理哲学論考』は、当時まだ無名だったウィトゲンシュタインが、世界に衝撃を与えた著書です。
第一次世界大戦に従軍していたウィトゲンシュタインは、兵役の合間を縫って本書を執筆し、第一次世界大戦後の1922年に本書が出版されました。
また、巻末にはイギリスの哲学者バートランド・ラッセルが解説を記していますが、実は間違っているというのは非常に有名な話です。
ウィトゲンシュタインのいわば師ともいえるラッセルが、誤って解釈してしまう
それほどまでに、『論理哲学論考』は当時の常軌を逸していたということでしょうか。
『論理哲学論考』の目的
それでは一体『論理哲学論考』の何が衝撃だったのでしょうか?
ざっくりと言えば、語りうることと語りえないことを明確に線引きし、これまでの哲学の諸問題は語りえないことだから議論を慎みましょうといったことです。
七 語りえぬことについては、沈黙せねばならない。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)
ウィトゲンシュタインの最も有名な言葉といえばこれです。
ウィトゲンシュタインがしたかったのは、思考の限界を定めることです。
しかし、思考の限界を論じるために「○○は思考できない」と考えても、それは○○が思考できている時点で限界ではありません。
そこで、思考の限界ではなく、言語の限界、つまり語りうることの全てを明らかにして、語りえないことを示す
これがウィトゲンシュタインが本書でやろうとしたことなのです。
事実と事態
一 世界は成立していることがらの総体である。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)
二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
『論理哲学論考』は、一から七までの主要な章と、それに付随する内容を「二・一」「二・二」「二・三」のような表現で記されています。
中には、「五・五三五一」のような、何がなんだか分からない数字も登場します。
こことはひとまず一と二について見ていきます。
重要なポイントは事実と事態です。
事実・・・現実に成立していること
事態・・・成立すると考えることができること
例えば、「東京で2021年夏季オリンピックが開催された」は、成立していることなので事実です。
一方、「東京で2021年冬季オリンピックが開催された」は、成立していません。
しかし、私たちは事実ではないにも関わらず、そのことについてありありと想像し、考えることが可能です。
こういった考えることが可能なことを事態と呼んでいます。
つまり、一と二でいっているのは、可能的な事態のうちの、成立している事態(=事実)を全て集めたものが世界であるということです。
しかし、私たちはなぜ現実には成立していない、見たことも体験したこともないことを考えることができるのでしょうか。
ウィトゲンシュタインは、それは言語があるからであると答えます。
- 世界とは、事態のうちの、成立している事態(=事実)を全て集めたもの
写像理論
二・一 われわれは事実の像を作る。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)
ウィトゲンシュタインは、言語は事実を写し取ると考えます。
例えば、木の枝にとまっているスズメをカメラで撮影するということは、〈スズメが木の枝にとまっている〉という事実をカメラで写し取って写真にすることです。
同じように〈スズメが木の枝にとまっている〉という事実を、「スズメが木の枝にとまっている」と言葉にすることで写し取ることができます。
このとき言葉は、現実の対象の代理物です。
〈スズメ〉を「スズメ」という語で代理し、〈木の枝〉を「木の枝」という語で代理し、まさに〈とまっている〉という様子を「とまっている」という語で代理しています。
本書では、こうして写し取った「スズメが木の枝にとまっている」を命題と呼び、「スズメ」といった対象を代理するものを名と呼びます。
(※正確には〈スズメ〉は対象と言い切れない本書の事情があるのですが、ここは便宜上そうします。)
ここでポイントなのは、写し取った像としての命題は、私たちが自由に構成できるということです。
〈スズメが木の枝にとまっている〉という事実は、自由に変えることはできません。
しかし、像であれば「スズメ」を「木の枝」ではなく、「電線」にとまらせることもできますし、「カラス」を「木の枝」にとまらせることもできます。
つまり、私たちはこういった事実を写した命題を要素(名)に分解し、その名を組み合わせることによって、事実ではない命題を組み立てることができているということです。
- 言語は現実の対象の代理物として事実を写し取り命題を構成する
- 命題を要素(名)に分解し、名を組み合わせることで、事実ではない事態が思考可能
名と対象の論理形式
二・〇一二三 私が対象を捉えるとき、私はまたそれが事態のうちに現われる全可能性をも捉える。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)
さきほど、さらっと「命題を要素(名)に分解し」と説明しましたが、分解する際に私たちは自然と論理形式を把握しているというのがウィトゲンシュタインの主張です。
これはどういうことでしょうか?
例えば、〈スズメ〉という対象を捉えたとき、私たちは〈スズメが枝にとまる〉〈スズメが飛ぶ〉〈スズメは小さい〉といった〈スズメ〉がいかなる事態に現われるかを同時に把握しているというのです。
事実の要素(対象)の論理形式とは、このどのような事態が考えられるかという論理的な可能性のことです。
そして対象の論理形式は、事実を写し取った命題の要素(名)の論理形式と一致します。
命題「スズメが枝にとまる」「スズメは小さい」などは、それが事実かどうかはさておき意味が分かる、つまり有意味だといえるでしょう。
逆に命題「スズメは素数だ」「スズメが噴火した」などは、無意味となります。
このように有意味になる「スズメ」との組み合わせこそ、「スズメ」という名の論理形式です。
- 対象の論理形式・・・どのような事態に現われうるかという論理的な可能性
- 名の論理形式・・・どのような有意味な命題に現われうるかという論理的な可能性
論理空間
名の論理形式が分かると、有意味になる配列の仕方も有限になります。
そして、あとは有意味な命題の総体が、私たちが語りうることの全てとなります。
ここで、論理空間という概念が出てきます。
論理空間とは可能的な世界の集合です。
論理空間を説明するために、2つの有意味な命題を考えてみましょう。
命題A 「スズメが電線にとまっている」
命題B 「カラスが電線にとまっている」
これらの命題が、事実として成立している場合は「真」、成立していない場合は「偽」とすると、その組み合わせは4通りあります。
パターン | ① | ② | ③ | ④ |
---|---|---|---|---|
命題A | 真 | 真 | 偽 | 偽 |
命題B | 真 | 偽 | 真 | 偽 |
①は、スズメもカラスも電線にとまっている、②はスズメしかとまっていない、③はカラスしかとまっていない、④はどちらもとまっていない世界です。
もしこの2つしか事態が存在しない場合、現実に成立する世界の可能性はこの4通りであり、これがこの世界線における論理空間だということです。
もちろん、この2つ以外にも可能的な事態が大量にありますから、実際にはほとんど無限の論理空間が開かれることになります。
- 論理空間・・・可能的な世界の集合
真理操作
しかし、無限とも思えるような論理空間が広がる中で、私たちの世界に成立している事実はほんの一部です。
先ほど見た命題AとBのみの世界においても、①~④までの全ての論理空間のうち成立するのは必ず1つだけです。
こうした論理空間を規定するために登場するのが、真理操作という言葉です。
例えば、命題A「スズメが電線にとまっている」が真であるとすれば、論理空間は必然的に①か②に定まります。
パターン | ① | ② | ③ | ④ |
---|---|---|---|---|
命題A | 真 | 真 | 偽 | 偽 |
命題B | 真 | 偽 | 真 | 偽 |
また、命題B「カラスが電線にとまっている」を否定すると(=「カラスが電線にとまっていない)、論理空間は②か④に限定されることになります。
パターン | ① | ② | ③ | ④ |
---|---|---|---|---|
命題A | 真 | 真 | 偽 | 偽 |
命題B | 真 | 偽 | 真 | 偽 |
ウィトゲンシュタインは、こうした論理空間上から一部を取り出す操作のことを真理操作といいました。
次のような場合も、論理空間上の規定をするため真理操作となります。
「命題AかつB」 ⇒ 論理空間上の①
パターン | ① | ② | ③ | ④ |
---|---|---|---|---|
命題A | 真 | 真 | 偽 | 偽 |
命題B | 真 | 偽 | 真 | 偽 |
「命題AまたはB」 ⇒ 論理空間上の①②③
パターン | ① | ② | ③ | ④ |
---|---|---|---|---|
命題A | 真 | 真 | 偽 | 偽 |
命題B | 真 | 偽 | 真 | 偽 |
- 真理操作・・・論理空間を規定する論理的な操作
語りうるものとは?
しかし、もちろん命題とはここまで単純なものばかりではありません。
みたいな複合的な命題が、世の中には数えきれないほど存在します。
ただこういった複合的な命題も、分解していけば「電線が2本ある」「カラスが電線にとまっている」「スズメはカラスとは別の電線にとまっている」の3つの命題に分かれます。
つまり、この複合的な命題は、「電線が2本ある」かつ「カラスが電線にとまっている」かつ「スズメはカラスとは別の電線にとまっている」という真理操作を施したものであるということです。
このようにして、各命題から複合的な命題が構成し、可能的な世界を記述しつくすことができるのです。
つまり、『論理哲学論考』での語りうることとは、有意味な単純な命題とそこに真理操作を繰り返した複合的命題の全てです。
逆にいえば、それ以外のことは語ることはできず、考えることもできません。
ウィトゲンシュタインは、有意味ではないとして、生と死や価値、自我といった哲学的問題は語ることができないといいます。
これまで哲学で論じてきた問題は、こういった語ることのできないことなのだから、変な気を起こして論じようとしないことだ。
というのがウィトゲンシュタインの主張であり、かの有名な言葉に表現されているわけです。
七 語りえぬことについては、沈黙せねばならない。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)
終わりに
しかし、鋭い読者であれば気づくことがあるかもしれません。
「○○について語りえない」と語ることは、結局○○について語っているということではないか?
実はその点もウィトゲンシュタインは自覚しています。
六・五三 私を理解する人は、私の命題を通り抜けーその上にたちーそれを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。
ウィトゲンシュタイン著,野矢茂樹訳『論理哲学論考』(岩波文庫)より抜粋
ウィトゲンシュタインの手引きにより、ここまで梯子をのぼってきた読者は、ここで「○○について語りえない」ということを語ることが、無意味であることを悟ります。
だからもうその梯子はもう必要ないということです。
ウィトゲンシュタイン自身、本書を執筆後に哲学界を去り、何を思ったのか小学校の教員になります。
その後、やる残しがあるかのように哲学界に戻ってくることにはなるのですが、1度哲学を止めるということからも、自らの生き方すら哲学に捧げているウィトゲンシュタインの姿が垣間見えますね。
そんな天才ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』をぜひ読んでみてください。
ちなみに日本語で本書を読む場合には、岩波文庫の野矢秀樹訳『論理哲学論考』が最もスタンダードであり、野矢秀樹の巻末の解説も充実しておりおすすめです。
入門書としては、同じく野矢秀樹の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』があります。
また、ウィトゲンシュタインに大きな影響を与えている、ラッセルやフレーゲも含めた言語哲学の入門書『言語哲学がはじまる』も分かりやすく、入りとして非常におすすめなのでぜひ読んでみてください。